7. 老いと進化
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生物の「加齢」は「老化」という言葉と同義語とされて混乱を招いているが、老化の定義は劣化である ワインやチェダーチーズにとっては、加齢は着実な改良
生物は、物体というよりも、多様なプロセスが働いている場所である
ヒトの身体は洗濯機や自動車床となり、また、この瞬間に存在する物質によって定義されるものでもない
ヒトとは、さまざまな物質を一時的に使用して多様な活動を行う複雑なシステムだが、その物質が身体なのではない
ヒトも含めたすべての生物は、物質が連続して流入してくるシステムで、入ってきた物質は役割を果たして外に出ていく
ヒトの身体は老朽化を免れることはできないが、進化による適応でそのプロセスに対抗することができ、たとえば皮膚などの組織の細胞はつねに守られる
永久歯の再生能力には限界があり、損なわれたエナメル質はもとに戻らない 歯を摩耗させる食物を食べていた一部の祖先にとって、これは深刻な問題だった
今で言う中年になるころには、臼歯はすり減って歯茎と同じ高さになってしまい、ろくに噛めない状態だった
同様に摩耗する爪は再生するが、永久歯は自然には生え変わらない
ゾウは非常に歯を摩耗させる食物を食べているが、長生きできる
ゾウは成熟してから死ぬまでに最大6組までも臼歯を生え替わらせることができるが、そのすべてを使い切るまで生きるゾウはほとんどいない
石器時代の平均的な食事におけるヒトの成長プログラムでは、二番目の永久歯が必要になるまでに生きることはないということが前提になっている 老化とは何か?
老化とは、われわれの身体が依存している物質の流れを正確にコントロールする能力がしだいに低下することを指す あなたの体内のコンピュータ制御装置は、胚の発生と同時に始動のスイッチが入り死ぬまで動き続ける もしも太陽の光が皮膚に当たり、体温が上がりすぎたり、紫外線で皮膚が痛めつけられるようになりそうだと、熱感知器がそれを脳に知らせる
脳が筋肉に刺激を送り、木陰の方に歩くように指示する
皮膚細胞そのものも問題を感知することができ、メラニン色素を作って対抗する もしも血糖値が機能障害を引き起こすまでに下がると、体内に蓄積されていたグリコーゲンか脂肪が糖にかえられるか、または、単に食物を食べに行くかする 年をとるにつれ、体内のコントロール機構の正確さが低下し、進化によって獲得した適応力が徐々に失われていく
年をとること自体が死の原因になることは決してない
人はみな、進化的適応を壊すような致命的な問題によって死ぬ
老化は、このような問題によって死に至る確率をどんどん高めているが、はっきりとした死のプロセスというものはない
老化と死の関係
85歳の男性は、脳の必要な酸素を心臓が供給できなかったために死ぬかもしれないが、75歳のときなら、心臓はその程度の仕事など楽にこなしていたはずだ
45歳の女性は難産で死ぬかもしれないが、35歳のときなら、そんなことは問題にならなかっただろう
35歳の男性または女性は、木に登るのが2分の1秒遅れてライオンに殺されるかもしれないが、10年前なら十分、逃げ切れたに違いない
歳を取るにつれ、死を招く原因も多くなるようだが、それは、生命を維持するための適応の成果が一方向的にだめになっていくから
誰もがみな、何かによって殺されるまで生きる
確かに、人間の成長と老衰の過程には説明が必要だ
身体は奇跡のようなやり方であの素晴らしい装置をつくりあげたあと、すぐに自分自身を維持するだけのこともできなくなる
進化から老化を考える
この問題に関する最近の定説は、生物学の二つの概念、人類的に見て平均的な生存率と繁殖価に基づくもの 生存率は、新生児がある一定の年齢まで生き残る割合の、長期にわたる平均値
ヒトの特徴が最終的に現在のものおように調整されるようになった、何十万年という年月の間、性的な成熟を迎えることができるのは新生児の約半分で、それはおよそ15歳ごろであったろうと広く認められている
このことも、成人における死亡率ももちろんかなりばらつきがあったに違いないが、一旦成熟した後の約20年では、年ごとの平均生存率は96%近くであったろう
もしそうだとすると、赤ん坊の約23%は35歳まで生き、10%は55歳まで生きることになる
しかし、35歳を過ぎると、老化の影響が今よりも一層顕著に現れたはずなので、55歳まで生きる新生児は、おそらく10%よりもずっと少なかったに違いない
こうした生存のスケジュールが長い間続いたとすれば、60歳以降の適応度などは、自然選択上は全く意味がなかったに違いない 繁殖価は、ある特定の年齢の人が将来もつと予測される子どもの数
新生児は大人になるまで生きない確率が高かったため、その繁殖価は比較的低かった
思春期が近づくとともに、実際に繁殖活動を始める確率が次第に高くなるので、繁殖価が急上昇する 思春期は、繁殖価のピーク近く
繁殖力が最高である数年間を含む、実際の繁殖期間が始まる決定的な年齢に達する
近い将来に繁殖の大半を行うのは、少なくともそこそこに繁殖価の高い人々
この年齢は、いわゆる中年などのもっと繁殖力の低い年齢に比べて、明らかに自然選択における重要性が高い
理論上は、自然選択は生存率と繁殖価の両方から同等の影響を受ける
したがって、適応を維持する自然選択の効力は、これら二つの要因の積で測ることができる
集団の人口が一定で、思春期を迎えるとすぐに繁殖が100%に達し、永遠の若さが授けられる以外は生活条件の変わらない、仮想の石器時代の人間集団を考える
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ここから得られる重要な教訓は、永遠の若さは急速に失われるということ
自然選択はつねに、持ち主の生涯における遺伝子成功が低くなるような遺伝子をまびきし、生涯における遺伝子成功が上昇するような遺伝子を広めるように働く
ここで、10代と20代の繁殖率が2, 3%上昇するといった、繁殖上の改良をもたらすが、100歳のときに肝臓がんの罹患率がきわめて高くなるというような突然変異があらわれたとしよう
個体のおよそ半数は少なくとも少しはその利益を享受し、4分の1は100%その利益を享受するだろうが、決定的な損失を被る可能性のある人は2%にも満たない
100歳の人の適応度は、それによって著しく低下するだろうが、平均的な利益は平均的な損失を上回る
遺伝子の変化はすべて、それが既存のものであろうと新たに発生したものであろうと、一つの明確な基準「集団の中の何割の個体が、利益と損失の影響をそれぞれ受けるか」によって評価される
このプロセスはつねに、年齢が比較的高い人々を犠牲にして、若年層に有利な適応を産む方向に働く
老化という現象が進化するためには、若い頃に実際に利益がある必要はない
自然選択が、年をとってからよりも若い時期における不都合な影響を抑えるよに働くかぎり、若い時期に対する適応は年をとってからの適応よりもずっと効果的に維持されるだろう
したがって、永遠の若さを手にした先の集団がもし存在するとしても、それは不安定なものにちがいない
自然選択は素早く老人を犠牲にして若い人の適応度を高め、老化という現象がやがて進化してくるだろう
生存率と繁殖価が、適応を維持する進化プロセスの効力を決定しているという抽象的な議論からは、30歳と40歳で敏捷性や繁殖力、伝染病への感染率などがどれだけ違うかといったような、単純な経験則は導かれない さらに、自然選択はたまたま若いとき以降の適応力も高める特徴に有利に働くことがある
老化は、完全に成熟するとともに始まる適応力の確固とした低下であり、すなわち、人間性の避けられない一面
老化によって死の確率は確実に高まるが、それは、死ぬ年齢に標準があるという意味ではない
あらかじめプログラムされた「自然の死」、あるいは種に固有の寿命というものはない
死亡率の年齢分布は、進化によって獲得された老化の率と生活環境の厳しさの相互作用の結果
人間を含めたすべての種の最高寿命は、この相互作用と観察されるサンプルの数によって決まる
老化についての研究は、あまりにも長い間、死のことしか頭にない生命保険会社の数理担当者たちに牛耳られてきた
老化の正しい研究方法は、個々の大人の生命機能の計測可能な要素について、何年にもわたって継続的に調べること
集めるべきデータは死ではなく、死は、データ収集の最後の出来事に過ぎない
死亡率は、老化の測定としては、最高に間違った測定値
個人で測定することはできないし、特定のグループでさえ測定できない
もし私が、80歳の人からなる1000人の集団の死亡率を測定したとしても、その同じ集団の90歳のときの死亡率を測定することはできない
すでに、そのうちの大勢の人が死んでいるはずだからだ
最も生存力の弱い人が絶えず除外されていくのだから、老化を測定するのに保険会社の統計を用いると、重大かつ予測できない歪みが生じかねない
死亡率は確かに老化という現象を進化させる原因としては重要なものだ
死亡率はまた、進化によって生じてきた老化の速度の影響も示している
しかい、死亡率は老化そのものの度合いを測るには適切でない
からだの知恵と愚かさ
今世紀(20世紀)初頭に、互いに矛盾するようなタイトルの二冊の本が出版された
一般に人類の適応におけるすばらしい精巧さ、とくに制御機能のシステムの精密さ
エスタブルックスはまた、石器時代のライフスタイルにあわせて作られた動物が、現代の生活にはうまく合わないだろうことも強調している
両方の題名とも内容を的確に表しており、いずれの研究も正しいことを指摘している
老化は生物学的に適応的な差し引き関係から生じているが、人間の立場からすれば、われわれの適応力が着実に衰退していくことは、知恵とは言えないだろう
進化はずっと若い個体を非に高く優先してきたので、80歳の老人は、事実、フィットしていない
残念ながら、老化および生物学的な対立だけが、人間の価値観に反するヒトの特性というわけではない
人体の基本的なデザインには、多くの機能的な欠陥がある
「基本的」とは、ヒトがすべての脊椎動物とまでは言わないが、あらゆる哺乳動物と共通に持っているものを指し、二足歩行に必要な細かい機能的調整を指すのではない ここで強調したいのは、いろいろな不都合の原因にはなるが、いわゆる病気ではない、不運な機能的限界
こうした問題は、「系統的制約」と呼ばれるものから生じる 進化は、なにもないところからある性質をデザインすることは絶対にない
解剖学的にみた人間の特性の多くは、現時点で望ましいものに由来しているのではなく、脊椎動物が発生した当時からの適応的変化に由来している それらのうちのいくつかが、ヒトおよび脊椎動物一般における、機能的な限界の原因となっている
これらの特徴のなかで顕著なものの多くは、もともとからだが左右相称に作られたということに遡る つまり解剖学的に見て、からだの構造の多くは、軸である正中線に位置する単一の器官であるか、左右に一つずつあって対になっている器官であることを意味している
わかり易い例として、人間には胸骨が一本と鎖骨が二本あることに注目しよう 胸骨のような正中線構造や、これを形成する個々の骨は、種によって、それぞれ異なる数だけ重複している
脊椎骨自体がよい例で、その数は10程度から数百までとさまざま 対をなす器官は、当然ながら、偶数に限られる
指や肋骨のように、ある程度数の多い器官は変化しやすい
指や肋骨を一組余分に持つことは、発達の過程を大きく乱すことはないからだ
しかし、ある脊椎動物において、四肢の最適数が6本であるような生活様式が生じたとしよう
残念なことに、四足動物の発生過程をほんの少し変えただけで、もう一組の手もしくは足を発達させるもとが生じることは、まずありえない もちろん、個体の発生に大きな変化が実際に生じることはある 頭の二つある赤ん坊は、ヒトやヒツジなどいくつかの脊椎動物にときおり生まれる このような重大な変化はつねに破滅的で、まず即座に死に至る
もし奇跡的に成体になるまで生存できたとしても、その運命はどうだろう?
配偶相手を獲得できるか
二匹の親から生まれる子に、その六本足の条件をうまく伝えることができるだろうか
しかし実際には、地球上に住むすべての脊椎動物は二対の手足をもっているのだから、二対の手足があることは、機能的に何らかの必要性があるはずだと思う人もいるだろう
からだの基本設計にとって機能的によいかどうかということは、ある特徴が保持されたり排除されたりする理由にはならない
人間に二対の手足があるのは、機能的な理由からではなく、純粋に歴史的な成り行きによるものだ
最初の肺魚が自ら這い上がって、ぬかるみの中を前進してきたとき、それは、二対の付属肢でそれを行った それでその子孫も二対の手足を持っている
子孫はせいぜいこれをうまく利用するしかない
四本の手足に制限されていることは、現実に重大な障害となるだろうか
いったん進化した鳥の羽は、二度と他のものに進化することはない 鳥がその羽を飛ぶこと以外の目的に変化させ、飛ぶ力を失った代わりに、羽を使って新しく高度な機能を行えるようになったなどということは、これまでに一度も起こらなかった
ペンギンはこのような変化を起こした鳥として引用されるかもしれないが、羽を使って泳ぐことは力学的には飛ぶことと同じであり、それを空中ではなく水中でするだけのことだ 他にもライフスタイルに応じて飛行能力を失った鳥はいるが、それはつねに、羽がすべてなくなるか、退化すること キーウィは祖先である四本脚の脊椎動物から徐々に進化して、二本足になった脊椎動物 このように考えると、昆虫は、脊椎動物よりも進化的利点が大きいということになる 典型的な昆虫には、六本の足と四枚の羽がある
進化によって、昆虫の羽や脚が移動用の付属肢以外のものに変化する可能性はあり、現にそうなっている
カマキリの前足は獲物を捉える特殊な武器になったが、あとの二対の足は、相変わらずうまく歩くことの役に立っている 甲虫類は、外側の羽を防御用の鎧にしてしまったが、内側の羽を使って上手に飛ぶことができる 人間の生活を不幸にも制約している器官のうち、もっとも顕著なのは、視覚と聴覚を司る器官が一対ずつしかないこと
目は二つよりも多いほうが、機能的に便利だろうか
目は一つよりも二つあるほうが好ましいのは当然で、人間は両方の目で同一方向を見ると立体視ができるようになり、奥行きのあるものとしてとらえることができる
ウサギなど多くの動物の目は、こうした利点を犠牲にして、それぞれの目をほぼ反対側につけて、ほぼ反対の方向を同時に見ることができる 後ろに第三の目があれば我々の暮らしはもっと便利になるだろうか?
運転するときにバックミラーがいらなくなるかもしれない
目が6つになれば、真上を含めてあらゆる方向を同時に、しかも立体的にとらえることができるだろう
耳についても同じだ
我々は音源の方向について水平方向は容易に感知できるが、上下方向はあまり良くわからない
感覚生理学者たちは、人間に垂直方向を識別する能力がそもそもあるのかどうかについて疑っているくらいだ
音源までの距離を知る手段に関しては更に曖昧なものしかない
長い距離で伝わってきた音は何か違う音に聞こえる
長い距離を伝わってくるうちに高音部の倍音が失われやすい
もし耳がもっとたくさんあったなら、こうした制約はいっさいなくなるだろう
このように人間の特徴は、音の処理能力に関して系統的制約を受けているが、人間が作る人工物はどうだろう
水平方向の音源を特定するために脳が行っているプログラミングのように精巧なものという意味であれば、おそらくない
われわれが音を利用するやり方の別の面に対する改良というのなら、多少の望みはある
補聴器メーカーは、マイクとスピーカーを驚異的なまでに小型化し、異なるピッチを選択的に増幅できるようにした
しかし、メーカーはどういうわけか、人間の二つの耳に装着される二つの補聴器に内蔵された2個のマイクの他に、さらに別のマイクを使う可能性を全く考慮していない
正常な聴力の人に複数のセンサーとデータプロセッサーを装着すれば、距離と方向を選択して音を聞くことができる